子供の頃、こんなことを親に言われたことがあります。

 

「武道、やってみるか?」

 

と。

 

 

なぜ、やるのか聞くと

 

「精神修養になるから」

 

という答えでした。

 

 

当時の僕は

せ い し ん し ゅ う よ う・・・・・って?

 

という感じで言葉の意味すらしならかったのです。

 

知ろうともしませんでした。

 

 

今から考えると

「アホか、えぇからやっとけ」

と思ってしまうけど、

 

 

 

当時の僕にとっては

 

毎週土曜日の朝にやっているキン肉マンのほうが大事でした。

 

気の合う友達とやっているファミコンのほうが大事でした。

 

学校の休み時間にやっていた友達とのじゃれあいのほうが大事だったのです。

 

 

 

 

だから、当然、武道はやってません。

 

「やってそう」とか言われるけどやってません。

 

「ボクシングやってるやろ?」とか言われたことがあるけどやってません。

 

 

 

そういうもんなんですよね。

 

それぞれの段階に応じて必要なことは違ってて。

 

 

 

いくら親や先輩が「将来、絶対に役に立つ」と言っても段階によってはそれを受け取る器がないことがあります。

 

 

 

音楽も同じで。

 

 

僕は音楽の行き着く先は精神修養だと思っています。

 

楽器演奏を通して、創作行為を通して、如何に心を鍛錬するか。

 

 

といっても苦行的なものではなく、もっと楽しく、易しいもの。

 

 

 

でも、これを聞いて

 

「そうそう!奧田クン、よくわかっているねぇ」

 

という人もいれば

 

「わからんけど、その世界が待ってるんだな!俺も励もう!」

 

という人もいれば

 

「はぁ?何言ってんの?オメーバカか?」

 

というクソヤローもいるのです。

 

 

 

別にどの反応をしても良いんです。(最後のは黙っててほしいけど)

 

 

大事なのは自分の感じることを大事にすること。

 

 

自分より先輩がどんな意見を持ってようが

 

わからんもんはわからんし。

理解したくないもんはしたくない。

認めたくないもんは認めたくないものです。

 

まずはそれを自覚する事が重要。

 

 

そして、同時に自分より先にいってる人が見えている世界があるけど、今の自分には見えないのだ、というある種の諦めが必要だと思います。

 

 

実はこういう認識が可能性を開いてくれるのです。

 

 

自分はわからないことをわかった瞬間に

自分は理解したくないとわかった瞬間に

自分は認めたくないのだ、とわかった瞬間に

 

わかることがある。

 

 

だから、出会うものには絶対に出会うようになっている。

 

今わからなくともいずれわかるようになっている。

そのときにわかったら良いのだから今わからなくても良いんです。

 

 

自分の感覚に素直になろうね。

出来る範囲で認めるのです。

 

 

追伸

その意味で生徒さんとして出会ったり、

教材等の購入者さんとして出会ったりと言うのはやはり特別なことなんです。

 

ありがたいことです。